少し前のことだけど、昨年の大晦日に
話題の映画『永遠の0』を見に行った。
戦争とか、命の重さとか、自分の意志で動くことが許されない時代のこととか
考えさせられたのは勿論なのだが、もうひとつ感じたことがある。
この物語では三浦春馬演じる主人公とその姉が
今は亡き祖父の存在を知り、
祖父を知る人を探す行動に出る。。
彼らが行動しなければ祖父という人物と
彼を取り巻く特攻兵たちのドラマは
知られないままに、祖父の知人の死によって
いつしか記憶の彼方に消えて行っていたはず。
実は、私の祖父も特攻兵だった。
知覧の特攻基地で出撃を待ち、
あと少しで飛び立つというところで終戦を迎えた。
祖父は九死に一生を得たそうだ。
祖父たちは戦後、同じ部隊の人々で冊子を発行したり
数年に一回、集まったりしていた。
毎年知覧基地に行き墓参りをすることも欠かさなかった。
私も幼い頃祖父に連れられて知覧基地に行ったことがある。
私は大学進学と同時に東京に出てきたが、
一時期病を患い実家に戻っていたことがある。
祖父は時々私のところにやってきて、
ぽつりぽつりと戦争のことを話し、冊子を読んでみてくれと手渡してくれた。
でも、その時の私は自分のことで精一杯で
祖父の話を聞く余裕がなかった。
それからすぐに私は東京に戻り、
さらに数年して祖父は亡くなった。
今は祖父が語ろうとした話を、聞きたくても聞くことができない。
どうしてあのとき祖父の話をじっくり聞かなかったのか。
私にはそれが悔やまれる。
先週、私は『遠野物語』の遠野を訪れた。
日本各地の土地に受け継がれる民俗や食についての取材をしたかったからだ。
「旅と民俗と郷土食」は私がずっと追っていきたいテーマ。
私は食を観察し書くことは人間がどうやって生きてきたか=人を描くことだと思っている。
ずっと書きたかったテーマの取材に今年はとりかかることにしたのだ。
昔の民俗行事を色濃く残す遠野でも
昔ながらの風習を知っているおじいちゃんおばあちゃん世代は高齢化していて、
今の世代は生活も変わり、年中行事などもやらなくなってきているそう。
「遠野でも昔ながらの原風景は急速に失われつつある」
「残さなくてはという思いでひいおばあちゃんからひまごに教えてもらっている」
「おばあちゃんたちから話を聞けるうちに聞いておかなきゃいけないよ」
地元の方々からそんな話を聞いた。
人の記憶の中に、宝物はつまってる。
こちらから聞かなければ
あったことも忘れられてしまうような
不確かなものだけど
いまなら聞くことができるし
残すこともできるはず。
遠野に向かう前に『遠野物語』を再読した。
前書きで柳田国男先生がこんな意味の言葉を書いていた。
「こんな話は今の時代にはあわないかもしれない。でも語らずにはいられない」
逡巡しつつも書き記してくれたからこそ、『遠野物語』の世界はしっかりと受け継がれ守られたんだろう。
人の記憶の中に、つまってる宝物を
探しに行きたいんだ、私も。